社会科学専門図書出版 文眞堂

竹内 毅 著

経営と西田哲学

事実より真実を求める経営学

〈書評・紹介文〉

書評:竹内毅著『経営と西田哲学』に接して

立教大学・中京大学名誉教授

三戸 公 氏

稀有の書である。読み進み,限り無く想念を呼び覚ます。

本書は,現下の地球と人間の危機的荒廃を惹き起こしたものを経営そのものの自己汚染によると把らえ,その「経営汚染」の根底にあるものは「歪曲された経営観」であるとし,「経営観の改革」を意図して書いた,と先ず序章で言う。そして本編は,意図に即して第1部「経営観の問題性」と題し,本来的な経営の相を把らえない「歪曲された経営観」の元兇を主観主義であるとし,その主観主義の倒錯が経済的合理性と科学的思考と結合して経営汚染の進化をもたらしたと論じている。では,主観主義を克服したあるべき姿の経営をつくり上げる経営観とはいかなるものか。それを論じたものが第2部「経営行為論」である。

まさに,本書は経営書であり,経営学の本である。だが,おそらくは経営者および経営学者のほとんどが容易に読み進むことは出来ないであろう。何故か。それは,本書は経営書というよりは,すぐれて哲学書であるからである。

哲学書と言うべき経営書が経営学者にとって容易に読み進めないはずはない。経営学者の根底にある哲学は西洋の哲学であり,経営学者は西洋の哲学を意識的に学びまた自ら西洋哲学に馴染み習熟しているからである。では,何故容易に読めないというか。それは著者が立つ哲学は西田哲学だからである。西田は西洋の哲学を駆使して彼の哲学を構築しているが,その根底にあるものは西洋の哲学者がこれまで積極的に論じたことのない〈絶対無〉だからである。著者もまた,あくまで〈絶対無〉に立とうとしている。

だから,本書に読み易く接することの出来る人は西田哲学を学んだ人達・研究者であろう。この人達にとっても,この本は特別な意味をもつものと言える。それは,一般に西田哲学は現状肯定・容認の学として受けとめられているが,この本は西田哲学に立って経営と現代社会を批判しその変革を論じようとしているからである。本書は,西田哲学を有史以来の危機的情況とも把握される現代を変革する学として展開しようとしている。

第1部・第2部につづいて「経営と存在」・「意志と思惟」および「存在論的経営試論」の3章からなる第3部「経営存在論」が置かれている。経営の具体・現実より出発し抽象化し経営の本質・真実に向った〈往相〉論と言うべきか。ここに,経営の現実を積極的に論じる準備が「存在論」として示されている。ここまで論じ書いて来て著者は,これからの為すべき仕事の自覚を深めつつおられるであろう。次の本は,〈環相〉(抽象から具体)の世界=経営の現実が豊かに画かれるであろう。著者にその仕事に耐える体力と気力を天に祈る。

経営学はこれまで山本安次郎が西田哲学に依拠して本格的経営学の構想を打ち出し,裴富吉教授がそれに対して執拗な批判を加えられたが,教授の西田哲学の外在的把握に依拠した批判から,なお山本は完全に逃れ得なかったと思う。だが,本書に対して裴批判はそのまま有効であろうか。ここで私は,著者の経営学理解に関して瑕瑾と思われるものは問わない。とまれ,山本先生にして御存命なら,本書の出現を喜ばれたにちがいない。

西田哲学について長く関心をもちつづけては来たが未だ本格的に学んだことのない私は,本書に接してあらためて馬場五段階説を想起した。馬場五段階説は何と西田哲学の用語がそのまま当てはまるものではないか。馬場は,〈個物〉としての個別資本を論じて,個別資本と総資本との関係を具体から抽象,抽象から具体の〈往相と環相〉を体系的に画いて,最抽象レベルで個別資本と総資本の個と全体の〈絶対矛盾的自己同一〉をとらえ,還相の途次を総資本は多数の個別資本からなる〈一即多・多即一〉と把らえ,それを同種・異種の個別資本の競争と具体化し,更にその個別資本を所有関係においてとらえ,最後にその個別資本が経営者の〈意識〉の層において把握されるものとして論じている。著者は,馬場理論と西田哲学との異同をどのように把握されるであろうか。

本書は,経営と経営学と哲学,そして人間・世界・東洋と西洋と学問等々と限りない想念をかき立てる。西田哲学はそのままで協働体系としての経営ないしは企業を論じきれるであろうか。西田に参入し,キリスト教さらにマルクスに及んだ滝沢克己の哲学(不可分・不可同・不可逆)ではいかがであろうか。

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